紙芝居を知る 紙芝居の歴史

更新:2007.04.01

紙芝居ストーリー -誕生から現代まで-

紙芝居の源流

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立ち絵「妖怪図」(西遊記)

出典: 群馬県立土屋記念文学館編.
紙芝居がやって来た. 2002

 紙芝居は、その源流をたどっていくと、江戸時代の「のぞきからくり」や「写し絵」から派生したものとみられています。

 「のぞきからくり」は、江戸時代にオランダから渡来した見世物ですが、 1.8メートルほどの箱の表に数個の穴をあけて、レンズをはめこみ、そこから中の絵を覗かせる仕組みになっていました。 内容は、必ずしも子ども向きのものとは限りませんでしたが、子どもにも人気があったそうです。

 「写し絵」は、今から200年程前に開発されたもので、寄席などで人気を集めていました。 木製の小箱に光源となる油ランプを入れて、フィルムに相当する種板に光をあてて、和紙のスクリーンに写し出すもので、 明治中期まで栄えました。

 場面を動かす方法も、今のように、物語の展開に合わせて、紙に描いた絵を一枚一枚めくっていくスタイルに至るまで、 様々な工夫がなされてきました。

 たとえば、「立ち絵」と呼ばれる、竹のくしを付けた紙人形を舞台で動かして演じさせるものがありました。 台の上で人形を置いてあやつると、それが鏡に映されて立って動くように見える仕掛けになっている「かがみ」とよばれるものもありました。 このような紙人形を使う芝居ということで、「紙芝居」という名前がついたとする説もあります。

 保育界の重鎮であった倉橋惣三(1882-1955)が、この「立ち絵」や「かがみ」の時代から、 紙芝居を保育に活用できないか研究中であったことが、最近の調査で明らかになっています。 倉橋は、日本の幼児教育、保育の理論と実践に多大な影響を与えた幼児教育学者です。

 現在、一般的に受け入れられている紙芝居通史では、 紙芝居を教育目的に活用した先駆者としては、後に登場するキリスト者の今井よね(1897-1968)が最初とされていますが、 今後の調査で詳しいことがわかってくるでしょう。

『黄金バット』の登場

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『鞍馬天狗 杉作兄弟の巻』
話の日本社, 1931-32

出典: 群馬県立土屋記念文学館編.
紙芝居がやって来た. 2002

 脚本に従って、絵の描かれた画面を次々とぬきながら演じていく、現在のスタイルの紙芝居のはじまりは、 関東大震災後の東京の街頭においてでした。これは「街頭紙芝居」とよばれて、庶民の娯楽として、人気を博しました。

 1935(昭和10)年の『紙芝居に関する調査』(東京市社会局)によれば、 「現在東京市には約二千人の紙芝居業者が居て、 (中略)一日に六十万人~百万人の子供に接して種々の感化影響を与えている」とあります。

 1930(昭和5)年には、『魔法の御殿』(後藤時蔵作、永松武雄画)が誕生しました。 「立ち絵」に対して、「平絵」とよばれる現在の紙芝居形式の始まりです。 最初のころのものは、手描きの一点もので、現在の紙芝居の約半分の大きさが主流でした。 説明や台詞の裏書きがなく、口伝であらすじが伝えられました。
 街頭紙芝居の代表作として有名な『黄金バット』(後藤時蔵作、永松武雄画)は、  この年の秋につくられて、大人気となりました。

 貸し元とよばれる紙芝居業者が、紙芝居の作家や画家を抱えて、 いわゆる「紙芝居屋」に賃貸しして営業するという制度も、1930(昭和5)年に始まりました。

 このころの紙芝居は、1巻が10場面前後で、 内容は男子向けの活劇もの、女子向けの悲劇もの、幼児向けの漫画などがありました。
 「紙芝居屋」は、こういった作品と舞台一式を自転車に積んで町に出かけ、 拍子木を鳴らして子どもたちを集めては、水飴などを売った後に、作品を演じてみせたのでした。

しかし、自転車も人も通るような雑踏の中で、子どもたちの興味を長い時間とらえつづけるために、 どぎつい色や刺激的な表現がつかわれました。荒唐無稽なストーリーや怪奇ものなど、 子どもの教育上有害と見なされるような内容も少なくはありませんでした。 また、街頭で水飴や煎餅などの食品をあつかう紙芝居営業には、衛生上の問題も指摘されました。

戦後、街頭紙芝居は復活し、一時は戦前をしのぐ隆盛を取り戻しますが、 テレビの普及とともに衰退していくことになります。

今井よねの「福音紙芝居」

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『クリスマス物語』
紙芝居刊行会, 1933
今井よね編集 板倉康夫画

出典: 群馬県立土屋記念文学館編.
紙芝居がやって来た. 2002

 子どもたちを魅了する紙芝居を教育目的に活用しようとする動きが、教育界やキリスト教界から生まれました。これは、後に「教育紙芝居運動」とよばれます。その先駆者といわれているのが、今井よね(1897-1968)でした。

 今井よねは、1928(昭和3)年よりアメリカへ留学して神学を専攻し、1932(昭和7)年に帰国します。東京に戻ったのは、ちょうど東京の下町に街頭紙芝居が流行り出した頃で、今井は本所区林町の教会で伝道と日曜学校の仕事を始めます。

 そこには、当時、四五十人の子どもたちが毎日集っていたそうです。ところがある日曜のこと、いつも来る子どもたちが五、六人しか来ないので、理由をたずねると、「先生、紙芝居が来ているんです。あれが見たいんです。行つてもいいですか」というのです。

 今井は子どもと一緒に紙芝居を見に行き、子どもたちをひきつける紙芝居の魅力に気づき、教会でもやろうと決心したといいます。

 今井にとって、アメリカ留学中に登場した街頭紙芝居はほとんど未知のものでした。そのため、当時批判されていた「非教育性」といった先入観をもたずに、紙芝居のもつ力を新鮮な驚きをもって受け入れたのでした。

 日曜学校で紙芝居を利用し始めると、子どもたちの出席率はよくなり、旧約聖書物語を以前よりはるかによく記憶したそうです。彼女は、教会近くの街頭でも、紙芝居を自ら演じて布教活動に努めます。

 1933(昭和8)年には「紙芝居刊行会」を設立し、印刷紙芝居の出版を開始します。そして、日本で最初の印刷福音紙芝居『クリスマス物語』(今井よね編集、板倉康夫画)が誕生するのです。

 しかし、強い信念で制作されていた今井の紙芝居も、戦時中はしだいに国策にそうものとなっていきます。戦後、街頭紙芝居が復活してからも、今井が紙芝居活動を再開することはありませんでした。

高橋五山の「幼稚園紙芝居」

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『花咲ぢぢい』 全甲社, 1935
高橋五山説話 日向まこと画

出典:群馬県立土屋文明記念文学館編.
紙芝居がやって来た. 2002

 今井よねの活動に刺激を受けた高橋五山(1888-1965)は、 今日、保育園や幼稚園で利用されている紙芝居の原型となる、幼児向け紙芝居の出版を始めます。

 当時は、街頭紙芝居が問題視されていた頃で、 紙芝居は品のないもの、教育には向かないものという考えが一般的でした。

 しかし高橋は、子どもたちが、教師や親の目をぬすんでまで見に行くのは、 紙芝居にそれだけの魅力があるからだと考えていました。 毎日きてくれるあのおじさんの口からじかに聞くお話、それがたのしいのだ。 この見る・聞くの魅力の上に、すぐれた文学性や美しい芸術性をもったら、 子どもの教育や情操にきっと役立つに違いないと考えたのです。

 高橋は、1935(昭和10)年に、「幼稚園紙芝居」シリーズ全10巻を発行します。 『赤ヅキンチャン』 『花咲ぢぢい』 『金のさかな』などの作品がありました。

 当時、幼稚園に売り込みに行くと、街頭紙芝居と混同され、たいていは門前ばらいでした。 話を聞いてくれたところでも、「私の園では良家のお子様ばかりをお預かりしていますからねえ」と言われて、 相手にされなかったそうです。 高橋は、このような無理解を啓蒙しながら、苦労して経営を続けたのでした。

 高橋の仕事は、プロレタリア児童文学運動を行い、 『太郎熊と次郎熊』を始め、多くの優れた作品を世に出した川崎大治に引き継がれていくことになります。

 保育界では、紙芝居は昭和7、8年頃から多くの園で行われるようになりました。 そして年を経るにしたがって、活発になっていきました。 昭和10年頃からは、保母による手作りの紙芝居も盛んに作られていたようです。

 街頭紙芝居に対する偏見が根強かったことを考えれば、 保育界の動きは迅速だったといえるのかもしれません。

教育紙芝居運動、そして戦争へ

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『花サカヂヂイ』
日本教育紙芝居協会, 1941
鈴木景山脚本 羽室邦彦画

(名古屋柳城短期大学 蔵)

 今井よねの「福音紙芝居」に端を発する一連の教育紙芝居運動は、松永健哉らによって推進されていきます。

 1938(昭和13)年に、松永健哉らが設立した「日本教育紙芝居協会」創設時のメンバーには、 劇作家の青江舜二郎、「つづり方教育」の推進者として知られる国分一太郎(1911-1985)、 児童文学作家の堀尾青史(1914-1991)、宗教学者の佐木秋夫(1906-1988)らがいました。

 当初は、紙芝居に関する基礎的研究と、 「教育紙芝居」(「印刷紙芝居」とも呼ばれました)の出版・普及活動を行うことを目的にしていました。

 しかし、その直後に戦時下に入ったことで、教育紙芝居は、国策のための戦中マスメディアとして利用されることになります。

 日本教育紙芝居協会は「国策紙芝居」といって、戦争に協力する国民教化を目的とした紙芝居を盛んに制作しました。 その感化力を高く評価された紙芝居を国が買い上げて、全国に配布したため、印刷紙芝居の出版部数は、戦前の十倍程になります。

 保育界でも、戦争の影響が強まってくると、「談話」というカリキュラムの中で、 「天皇節のお話」「海軍記念日」「靖国神社の話」といった作品が使われました。 戦争が激しくなって保育用具が不足してくると、保母らが手作りできるうえに、戦争協力の話をしやすい紙芝居がいっそう盛んに使われたということです。

 戦争に協力してきたことで、紙芝居は戦後に批判を受けることになります。GHQによる検閲と処分もありました。

 
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『日満親善餅』
日本教育画劇, 1942
松永健哉脚本 小谷野半二画

(名古屋柳城短期大学 蔵)

 日本教育紙芝居協会の佐木秋夫は、1946(昭和21)年に、 日本の戦争犯罪を追及した東京裁判に出て、「国策紙芝居」の役割について証言しています。 佐木は、法廷で『戦争しているのだ』という作品を通訳付きで実演し、紙芝居の戦争協力は、政府の指示によるものだったと述べました。

 紙芝居の、子どもから大人までを引き込む感化力、単純で手軽に農村部にも持ち込める普及性は、 戦中のマスメディアに適していたのでしょう。

 しかし街頭紙芝居が築いた紙芝居人気が、大衆に深く根付いていなければ、 教育界からの批判的な注目を集めることも、戦中のマスメディアとして国家に取り込まれていくこともなかったのかもしれません。

戦後の紙芝居

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『おうたのなぞなぞ』
日本紙芝居幻灯, 1953
副島ハマ作 白根美代子 画

(名古屋柳城短期大学 蔵)

 戦後、街頭紙芝居は1946(昭和21)年頃より復活し、1948年から1949年にかけて最盛期を迎えます。 しかし、戦後の荒廃から刺激を求める大衆向けに演じられた紙芝居は、エロ・グロ人気におされて、無審査のものが増えていきました。

 紙芝居は子どもに悪影響を及ぼすものとして、教育上の批判が高まり、新聞紙上にもたびたび取り上げられるようになりました。

 1955(昭和30)年、テレビの普及台数が全国で10万台に達し、この5年後には500万台を突破します。 そしてテレビの人気におされるように、街頭紙芝居はしだいに町から消えていきました。

 一方、戦後の教育紙芝居運動は、1948(昭和23)年頃から本格化します。 1950(昭和25)年には、佐木秋夫、高橋五山、稲庭桂子らは「教育紙芝居研究会」を結成し、 「国策紙芝居」の反省にたって、「民主主義紙芝居」運動を先導していきます。

 保育界でも大きな動きがありました。 1948(昭和23)年に文部省は、戦後の最初の幼児教育の手引書となる『保育要領-幼児教育の手びき-』を制定します。 この『保育要領』によって、紙芝居は、保育制度史上、はじめて保育教材として位置づけられたのでした。

 ここには、当時の保育界で活躍していた、倉橋惣三や副島ハマの影響力がはたらいたようです。 この頃、副島は、「保育紙芝居」の製作も手がけていました。

 1955(昭和30)年、戦後の教育紙芝居の普及に貢献した「日本紙芝居幻灯」が倒産します。 さらに、1967(昭和42)年の文部省による教材基準の改訂は、紙芝居を学校教育から締め出すことにつながりました。

 こうして、紙芝居の出版は、幼稚園や保育園向けの保育紙芝居に集中するようになり、 出版規模を縮小しつつ現在に至っています。

紙芝居の現在

 街角から紙芝居が消えても、「紙芝居」は幼稚園・保育園、図書館で利用され、生き続けていきました。

 1980年頃からは、手づくり紙芝居がさかんになってきます。 1980(昭和 55)年には、神奈川県で「第1回手づくり紙芝居コンクール」が開催され、 1986(昭和 61)年に子どもの文化研究所主催「全国紙芝居まつり」、1989(平成 元)年には 「箕面手づくり紙芝居コンクール」が開始されます。

 また、情報技術の進展とともに、コミュニケーションの稀薄さが問題にされるようになって、 人間的なふれあいのある紙芝居の良さが見直されるようになってきました。 子どもの文化として生まれた紙芝居を、高齢者ケアの現場に生かそうとする試みもはじまっているところです。さらに、海外に日本独自の文化を発信する活動として、東南アジアや欧米などでの紙芝居交流がたびたびマスメディアに取り上げられるようになりました。

 本学では、2005年度に、全学的取組として「子ども文化と紙芝居プロジェクト」を立ち上げました。 2006年度は、本サイト構築事業のほか、2006年10月15日にフォーラム「紙芝居の魅力と演じ方」を開催するなど、 紙芝居振興に向けた様々な活動を展開しているところです。

 「紙芝居」はいま、着実に歩みをすすめようとしているのです。